コバノミヤマノボタン

Bredia okinawensis 和名:コバノミヤマノボタン中国語名:小葉深山野牡丹英語名:Okinawa Bredia原産地:沖繩島北部特有種 コバノミヤマノボタンは、やんばるにのみ分布する固有種です。よく見られるノボタン(Melastoma candidum)は花が大きく、通常は5枚の花弁を持ちますが、コバノミヤマノボタンはそれよりも花が小さく、通常は4枚の花弁を持ち、5〜6月に開花します。違法な採取により、現在では個体数が非常に少なくなっています。

オキナワマドボタル

Pyrocoelia matsumurai matsumurai 和名:オキナワマドボタル中国語名:沖繩窗螢英語名:Okinawa Pyrocoelia Firefly原産地:沖縄諸島の一部の島嶼、八重山諸島の一部の島嶼 オキナワマドボタル(Pyrocoelia matsumurai)はマドボタル属(Pyrocoelia)に属する種で、以下の3亜種に分けられています: やんばる地域では、湿った側溝の周辺でライトを消すと、本種 P. m. matsumuraiの幼虫を観察できることがあります。幼虫は陸生で肉食性、特にカタツムリを好んで捕食します。成虫は4月頃に出現します。

イジュ

Schima wallichii ssp.  和名:イジュ中国語名:西南木荷、紅木荷英語名:Okinawa needlewood tree原産地:東南アジアに広く分布し、日本では琉球列島と小笠原諸島に分布。 イジュは、日本では琉球列島と小笠原諸島に自生していますが、それぞれに形態の違いがあり、琉球列島の個体群を別亜種とする見解もあります。ただし、現在のところ正式な分類は定まっていません。 イジュは琉球列島の非石灰岩地帯の森林における代表的な高木種の一つで、特に梅雨の5月頃になると、真っ白な花が一斉に咲き誇り、森を明るく彩ります。イジュの花はとても美しく、観察シーズンには目を引きます。 樹皮にはサポニンが含まれており、かつて沖縄では、この樹皮を粉末にして魚毒として利用した歴史もあります。また、焼いて得られる灰は、沖縄そばの製麺時に使う「草木灰」として利用されていました。 2〜3月には新芽が赤く染まり、この時期は他の木と容易に区別できます。一方、夏に花も新芽もない時期には、鋸歯のあるブナ科の樹木と見間違えやすいこともあります。 参考資料:山羊百科(中国語)https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒメツバキ/国立科学博物館ー琉球の植物データベース なお、イジュの白い花は、沖縄の古い民謡「辺野喜節(べのきぶし)」にも歌われており、人々の生活や文化の中でも身近な存在でした。 伊集の 木の 花やいじゅぬ きぬ はなや あん 清らさ 咲きゆいあん ちゅらさ さちゅい わぬも 伊集 やとて わぬん いじゅ やとぅてぃ  真白 咲かましら さかな (意味) 伊集の木の花は,あんなにもきれいに咲いている。私も伊集の木の花のように,真っ白にきれいに咲きたいものだ。

オキナワヤマタカマイマイ

Satsuma eucosmia eucosmia 和名:オキナワヤマタカマイマイ(ヤンバルヤマタカマイマイ)中国語名:沖繩高腰蝸牛英語名:Satsuma eucosmia原産地:沖縄諸島(沖縄島、伊江島、瀬底島、津堅島など)。別亜種が鹿児島県の沖永良部島に分布。 沖縄諸島に分布するニッポンマイマイ属(Satsuma)の樹上性種の中で、沖縄島で比較的よく見られる種は以下の通りです: Satsuma eucosmia は色彩の変異が大きく、種小名「eucosmia」は「美しい装飾」という意味を持ちます。ピンク、茶色、白地に黒の螺旋模様など、さまざまな色彩の個体が存在します。 S. e. erabuensis 以外の分類については、現在も議論があり、恩納村以南に分布し殻が低めの個体群を S. e. eucosmia、一方で殻が高く赤みが強い個体群を別亜種 S. e. ssp. として分けるべきという意見もありますが、現時点ではこの分類は正式には認められていません。 また、沖縄島に分布する Satsuma largillierti と S. e. eucosmia のうち、殻が低く白っぽいタイプは外見が非常によく似ています。文献では生殖器の構造により識別可能とされていますが、それを観察できない場合は分布域からある程度推測するしかありません。一般的には、本部半島では S. largillierti、那覇以南では S. e. eucosmia が見られますが、実際には分布が重なっており、外見だけでの判別は困難です。 参考資料: Kameda, Yuichi, and Makoto Kato. “Systematic Revision of the Subgenus Luchuhadra (Pulmonata: Camaenidae: Satsuma) Occurring in the Central Ryukyu Archipelago.”… Continue reading オキナワヤマタカマイマイ

リュウジンオオムカデ

Scolopendra alcyona 和名:リュウジンオオムカデ中国語名:琉神蜈蚣英語名:Halcyon Giant Centipede原産地:沖縄島北部、石垣島、西表島、久米島、渡嘉敷島、台湾 本種は2021年4月に新種として記載されたもので(参考資料)、世界で3例目の半水棲性ムカデとして知られています。渓流環境に生息し、危険を感じると水中に潜ることがあり、テナガエビを捕食している様子も観察されています。 種小名の alcyona は、ギリシャ神話の風の神の娘アルキュオネー(Alcyone)に由来します。彼女は結婚後に幸せな生活を送りながらも、自らをゼウスとヘラになぞらえたことで神々の怒りを買い、カワセミに変えられたとされます。本種の歩脚の多くは青色を呈し、その姿がカワセミを連想させることから名付けられました。 また、和名の「琉神大百足」は琉球王国の神話に由来しています。あるとき、海上で暴れる龍神の耳にムカデが入り込み、激痛に苦しみながらもどうすることもできませんでした。そこへ鶏が現れ、ムカデをあっさりと食べてしまいました。この出来事以来、龍神はムカデと鶏を恐れるようになり、琉球王国時代の船には航海の安全を祈って、ムカデ旗や鶏の図を掲げる風習がありました。この話に登場するのは「龍神」ですが、日本語では「龍(リュウ)」と「琉(リュウ)」が同音であるため、漢字に「琉神」が使われています。

アラモトサワガニ

Geothelphusa aramotoi 和名:アラモトサワガニ中国語名:新本澤蟹英語名:Aramoto Freshwater Crab原産地:沖縄島、伊平屋島 参考資料:Potamoid Crabs of the Ryukyu Islands? with Desrciptionsof Five New Species (Crustacea, Decapoda, Potamoidea) アラモトサワガニは、甲幅約3cmで、沖縄島に分布するサワガニ類の中で最も分布が限られている種です。特定の渓流流域にのみ生息しており、他のサワガニ類が水域から離れることがあるのに対して、本種はほぼ水中で生活しています。 命名の由来は文献中に明記されていませんが、記載論文のタイプ標本の採集者「Y. Aramoto」氏にちなむものと思われます。

リュウキュウヤマガメ

琉球山龜

Geoemyda japonica 和名:リュウキュウヤマガメ中国語名:琉球黑胸葉龜、日本地龜英語名:Okinawa black-breasted leaf turtle原産地:沖縄島北部、久米島、渡嘉敷島 リュウキュウヤマガメは、中国やベトナムに分布するスペングラーヤマガメ(Geoemyda spengleri)に近縁で、かつてはその亜種とされていましたが、1992年に独立種と認定されました。美しいリュウキュウヤマガメは密猟者の標的となりやすく、2013年以降ワシントン条約の対象種に指定され、商業輸出は禁止されています。それにもかかわらず、2018年には香港で60匹の密輸個体が発見され、沖縄の空港で密輸を食い止められなかったことが、日本の税関の対応の甘さとして問題視されました。 また、野外のリュウキュウヤマガメは、生息地の破壊や殺虫剤による中毒、道路脇の溝に落ちること、野生化したネコやイヌによる捕食、ロードキルなどの影響で、近年個体数が急激に減少しています。

オキナワアオガエル

沖繩綠樹蛙

Zhangixalus viridis 和名:オキナワアオガエル中国語名:沖繩樹蛙英語名:Okinawa Tree Frog原産地:沖縄島、伊平屋島、久米島 11月から5月にかけて、やんばるではオキナワアオガエルの繁殖期の鳴き声がよく聞こえます。オスの腹部は黄色、メスの腹部は白色で、体の大きさにも大きな差があるため、雌雄の識別は比較的容易です。繁殖活動が盛んな冬の時期には、樹上から道路へと移動する個体も多く、それに伴い交通事故に遭うケースも少なくありません。

クスサン

Rinaca japonica ryukyuensis 和名:クスサン中国語名:雙黑目天蠶蛾(琉球亜種)英語名:Japanese Giant Silkworm原産地:奄美大島、徳之島、沖縄島 クスサン(Rinaca japonica)には3つの亜種があります: 琉球亜種の成虫は指名亜種よりも色が濃い傾向があります。和名「クスサン(樟蚕)」とありますが、幼虫はクスノキ属以外の植物も食べる多食性で、特に春(4月頃)によく見られます。大発生すると樹木の葉を食べ尽くすこともあります。幼虫は青緑色の長い毛をもち、気門は青く、毒毛はなく触っても問題ありません。成虫の後翅には二つの大きな黒斑があります。 参考資料: 幼虫がタブノキを食べる(Machilus thunbergii) この投稿をInstagramで見る Yanbaru Nature Guide Wanyu(@yanbaru_wanyu)がシェアした投稿

ホルストガエル

赫魯斯特蛙

Babina holsti  和名:ホルストガエル中国語名:赫氏拇棘蛙、赫魯斯特蛙、琉球拇棘蛙英語名:Holst’s frog原産地:沖縄島北部、渡嘉敷島 ホルストガエルは成体で最大12cmにも達し、沖縄に生息するカエルの中では最大の在来種です。繁殖期は夏で、イヌのような低い声で鳴くのが特徴ですが、ライバルのオスが近くにいると、縄張りを主張するために独特の音階の鳴き声を発します。 このカエルのオスは、指に骨が変化した鋭いトゲ(爪)を持ち、ライバルとの闘争や、メスにしっかり抱きつく際に使われます。卵は止水域に産みつけられ、水面に浮かぶような状態で見られます。 ホルストガエルの学名「Babina holsti」の種小名「holsti」は、採集者の名前に由来するとされていますが、図鑑ではあまり詳しく触れられていません。この「Holst」とは、大英博物館の鳥類学者ヘンリー・シーボーム(Henry Seebohm)から依頼を受け、東アジアに採集旅行を行ったスウェーデン人 P. A. Holst(ホルスト)のことです。 彼は1879年から1892年にかけて、日本本土はもちろん、対馬、小笠原諸島、硫黄列島、琉球列島などを巡り、標本を収集しました。1892年には沖縄島でも採集活動を行っており、その際にホルストガエルも採集された可能性があります(ジョウゴグモ標本の記録より推察)。 1893年から1895年には台湾に渡り採集活動を行いました。射撃の腕前が非常に優れていたことから、当時暗殺を企てていた原住民も手を出せなかったという逸話が残されています。台湾の固有種であるタイワンシジュウカラ(Parus holsti)は、彼が採集した標本をもとに、シーボームが命名した新種です。 P. A. Holst は1895年に肺病で亡くなり、台南に埋葬されました。しかし、その後墓地が中国石油公司の用地として開発され、すべての墓石が撤去されたため、彼の墓石も行方不明となっています。 参考資料(日本語での入手が難しいため、以下を簡略に紹介):高橋良一著(昭和10年10月)。[動物採集家P. A. HOLST]。《數位典藏與數位學習聯合目錄》 23-25ページの内容。(旧字使用のため、現在の新字体に変換して記載) 動物採集家 P. A. HOLST高橋 良一台湾に来て動物を採集した外国人は、現在までに、約70人に達して居る。之等の人々の中、本島にて没し、骨を此島に埋めた者は H. RITCHIE(1840-1879), G.L. MACKAY(1844-1901), P. A. HOLST等の数名に及んでい居る。本編は之等の人々の中、本島動物学史上甚だ注目すべきP.A. HOLST氏に就て、筆者の知り得た處を記して、彼を偲び、その面影を傳へんとしたものである。彼は無名の1採集人にすぎなかった。然も彼を東洋に派遣した HENRY SEEBOHMも彼と同年に死去し、彼の死亡記録或は伝記は全く公にされることがなかった。唯 ALVAREZ, DAVIDSON, DE LA TOUCHE 及び SEEBOHM がその著述及びその採集品の研究報告を参考とし、彼の墓を訪ひ、又彼を識る本島の古老に話を聞き、之等の資料を材料として、本文を編した。本文を草するに際しては、江崎悌三教授、汪培英氏(屏東)、羅約伯氏(高雄州、木柵)、E. BAND氏(台南、長老中學校)初め多数の方々より多大なる援助を与えられた。記して謝意を表する。 P.A. HOLSTは、英国の鳥学者HENRY SEEBOHMの採集人として、1888年頃日本に来た。小笠原島(1889)、硫黄島(1889)、九州(島原)、対馬(1891)及び琉球を旅行して、多数の動物を採集し、1893年の初頃に台湾に渡って来た。彼が台湾の北部は探検しなかったこと及び当時琉球、本島間の交通の甚だ不便であったこと(WARBURGによる)を見れば、彼は日本の本土より、支那、厦門を経て、安平に来たものと思はれる。 彼の国籍は、ALVAREZはノールウェーであると記述しているが、40余年前親しく彼に接した汪培英氏(屏東)は、スウエーデン人であると云って居り、現在その国籍を決定し難い。彼の出生地、生年月日、履歴も元より全く不明であり、その肖像も見ることは出来ない。然し古老の話によれば、本島に来た時は30余歳であったと推定され、又痩せ形の人であったことは疑わない。江崎教授は、ノールウェーの知人に彼の調査を依頼されたが、何等得る處はなかったと云ふことであり、又現在台湾の英国領事館にも彼に関して何の記録も残って居ない。台湾にて高雄州、台南州及び中部台湾を探検し、新高山の近くまで旅行した。高雄州にては、屏東(阿猴)、六龜(六龜里)、木柵及びその付近を訪い、六龜及び木柵には約2箇月間滞在し又六龜にては蕃社を訪うたと云はれて居る。またTHOMASは、彼が1893年11月4日、高雄州、木柵にて「彼が此地に滞在10日の後に、前日六龜に向かって出発した」ことを聞いたと述べて居る。 又THOMASは、彼が1893年3月4日に木柵に於て採集した兎を記録して居る。之等の記述によって、彼がその頃高雄州下を旅行して居たこと、木柵には少なくとも2回以上来たことを知り得るでしあらう。DAVIDSONは、彼が東海岸地方を探検したことを述べて居るが、その採集品には明に東海岸産のものは知られて居ない。又本島在住60年に達する台湾のTHOMAS BARKLAY師は、「HOLSTは安平の税関に勤務して居たことがある」と云って居るが、その真なるや否やは明にするを得ない。HOLSTは単独にて、本島に来り、自ら動物を採集して、自ら標本を製作した。然し本島人を雇って道案内とし、又愛犬1匹を連れて居た。彼は狩猟に甚だ巧みであったことは、古老の話によって知ることが出来る。旅行中は本島人の家屋に住居し、或は宿屋又は外人宣教師の家に泊った。 1895(明治38年)の春頃、彼は本島在住2年余りで、終に此島に於て没し、その墓は台南市、三分子の墓地の西北隅に近く、本島人の墓の間に横はって居る。死因、死亡の場所及び月日は共に不明で、その粗末な墓石には単に”P. A. Holst. Naturalist died 1895”と刻まれて居るに過ぎない。墓石は高さ約1尺7-8寸、厚さ約3寸、幅約1尺の石が、幅約3尺の薄い臺石の上に東面して立って居る。写真は筆者が此墓を発見した翌日(1935年5月24日)撮影したものである。此墓石の建設者も今は何人であったか知る由もない。 彼の死去の年は、領台の年で、本島の南部の戦禍のはずであった。従って彼の悲惨な死も想像され得る。然し、彼に親しく接した汪培英氏(屏東)は、彼が肺を病んで居たことを述べて居るのを思ふと、台南又はその付近にて、病死を遂げたことも考へられる。DAVIDSONは、日本軍の台湾占領当時、本島都市に住居した外人の名を記して居るが、その中には彼は発見されない。彼は単なる1採集人であり、何等の研究も行わず又自ら何の記録も発表しなかった。然し、生態の観察は行ひ、SEEBOHMの報告の中には、鳥(Pitta nympha)の食性に関する彼の観察が記録されて居る。以下今より40余年前に、本島に於て親しく彼に接した古老の話を記して、彼を知る一助と致し度い。元より之等は彼等の古い記憶によるものであるから、事実と異る点もあり得ること、思はれる。 汪培英氏(屏東)談(1935年5月21日)「HOLSTはスエデン人であって、何必虞と號して居た。屏東(阿猴)にて面会したのは40余年前であって、彼は30歳余りであったらう。瘠せた人であったが、顔は陽に焦けて赤黒く、甚だ愉快な人であった。台湾語は解しなかった。単独にて来り、本島人1名を雇って道案内とし、又犬1匹を連れて居た。埔里方面を旅行の後に阿猴に来り、此地には滞在すること短くして、老濃、六龜方面に向ひ、その後は再び来なかった、彼は自ら採集し、自ら鳥の剥製をし、狩猟は甚巧であった。或時六龜方面の蕃社を訪ひ、その首棚をスケッチしたるに、蕃人は彼を発見して殺害しようとした。彼は、その時飛び来った鳥を撃ち落し、又付近に生する竹を撃ち割った。蕃人は彼の神技と銃の威力に驚き、彼は危害より脱することを得たと、傳へ聞いたことがある。彼は肺結核を病み、木柵に永く滞在したと聞いたが、その死亡の場所及び墓は知らない。余の隣家は当時宿屋であり、此宿にて彼に会ったのである。彼は採集した甚だ小形の鳥や大形の蝶の標本を余に示したことを記憶する……」。 江德明氏(旗山郡、六龜)談(1935年5月19日)「彼は40余年前、日本人の六龜に現れる前に此地に来た。40歳位であって、身長高く、単独で旅行して居た。老濃渓岸の本島人の家に住んで居たが、その家は後年大水に流失して今は無い。六龜には2箇月位滞在して居た。死亡の場所は知らない」。 羅約伯氏(旗山郡、木柵)は同地の古老に聞き質されて、次の如く通知してくださった(1935年6月)。「HOLSTは木柵には約2箇月滞在し、キリスト教会の英人宣教師の宿舎に泊まって居た。時季は旧暦の11月ー12月頃であったかと思ふ。此地付近のみならず、遠く溝坪、杉林、甲仙にも採集に行き、狩猟は甚巧で、1日50余羽の鳥をとったこともあった。その時季は冬であり、彼は採集には常に茶褐色又は黒色の上着を用ひ、鳥打帽を戴て居た。当時の伝道師高長なる者を通して、朱才と云ふ本島人を雇って使って居た。毎日午前7時頃より、最終に出発した。愛犬を『ガン』と云ふよく訓練された大きな犬であった。当時その教会には教育所があって、多数の児童に漢文を教へて居たが、彼はその生徒達と親しみ、採集した鳥を示したことがあった、その鳥の中には甚だ小形の種類や又彼自身の名の付けかれた珍しい種類もあった。当時30歳くらいであったと思われる。食物は本島人と差別なく、前記高長氏の家で料理させて居たが稀にはパンを焼いたこともあった。木柵を去るに際しては、前記朱才を先づ安平に送って英国領事館に書信を届けさせ、「今より台南に帰る」と云って出発した。彼は新高山及び阿里山方面にも行ったことがあると云ふ。健康であって、その死亡の場所は不明である」。台南の有力なる古老で、外人との交渉の多かった許延光氏は、HOLSTを全く記憶して居なかった。(1935年5月)… Continue reading ホルストガエル