赫氏赤蛙

赫魯斯特蛙
赫魯斯特蛙

Babina holsti 

日文名:ホルストガエル
中文名:赫魯斯特蛙、赫氏赤蛙、琉球拇棘蛙
英文名: Holst’s frog
原產:沖繩島北部、渡嘉敷島特有種

在4月到9月,山原地區有時可以看見這種大型的青蛙。在這段繁殖季的期間,可以聽見赫氏赤蛙低沉像是狗一樣的叫聲,但如果遇到其他競爭對手,有另一種特別的音階叫聲,用來宣示自己的地盤。赫氏赤蛙有拇指,拇指裡藏有骨頭特化成的刺(爪子),可用於與其他雄蛙打鬥或更利於緊緊抱住雌蛙。

赫氏赤蛙產卵在靜水域,卵浮在水面。

在水溝溝渠裡的赫氏赤蛙的卵,浮在水面 2022/6月 國頭村

日本的兩爬圖鑑對於赫氏赤蛙(Babina holsti)的種小名來源只是輕描淡寫地表示是採集者人名,這位Holst是曾受大英博物館鳥類學家Henry Seebohm委託前往東亞採集的瑞典人P.A. Holst,赫魯斯特(或譯為霍斯特、赫斯特、赫爾斯特)。

1879年-1892年,他除了日本本土之外,也曾到對馬、小笠原群島、硫磺群島、琉球群島等進行調查,根據長尾蛛標本資料,1892年時他在沖繩島採集,赫氏赤蛙可能也是當時採集到的物種。

1893-1895年他前往台灣採集,據說他的槍法神準,讓原本打算暗殺他的原住民不敢輕舉妄動。台灣特有種黃山雀即是Seebohm根據他所採集的標本所命名的新種。P. A. Holst於1895年因肺病病死並葬於台南,但該墓地後來開發為中國石油公司用地,所有墓碑被移走,而P. A. Holst的墓碑也下落不明。

有鑑於日本人不易找到台灣的研究古籍資料庫並申請帳號登入,僅提供下列內容做為參考。高橋良一著(昭和10年10月)。[動物採集家P. A. HOLST]。《數位典藏與數位學習聯合目錄》p.23-25的內容。
過去的日文漢字古字在輸入上會變換成目前的新漢字,請見諒。

動物採集家 P. A. HOLST
高橋 良一
台湾に来て動物を採集した外国人は、現在までに、約70人に達して居る。之等の人々の中、本島にて没し、骨を此島に埋めた者は H. RITCHIE(1840-1879), G.L. MACKAY(1844-1901), P. A. HOLST等の数名に及んでい居る。
本編は之等の人々の中、本島動物学史上甚だ注目すべきP.A. HOLST氏に就て、筆者の知り得た處を記して、彼を偲び、その面影を傳へんとしたものである。
彼は無名の1採集人にすぎなかった。然も彼を東洋に派遣した HENRY SEEBOHMも彼と同年に死去し、彼の死亡記録或は伝記は全く公にされることがなかった。唯 ALVAREZ, DAVIDSON, DE LA TOUCHE 及び SEEBOHM がその著述及びその採集品の研究報告を参考とし、彼の墓を訪ひ、又彼を識る本島の古老に話を聞き、之等の資料を材料として、本文を編した。
本文を草するに際しては、江崎悌三教授、汪培英氏(屏東)、羅約伯氏(高雄州、木柵)、E. BAND氏(台南、長老中學校)初め多数の方々より多大なる援助を与えられた。記して謝意を表する。

P.A. HOLSTは、英国の鳥学者HENRY SEEBOHMの採集人として、1888年頃日本に来た。小笠原島(1889)、硫黄島(1889)、九州(島原)、対馬(1891)及び琉球を旅行して、多数の動物を採集し、1893年の初頃に台湾に渡って来た。彼が台湾の北部は探検しなかったこと及び当時琉球、本島間の交通の甚だ不便であったこと(WARBURGによる)を見れば、彼は日本の本土より、支那、厦門を経て、安平に来たものと思はれる。

彼の国籍は、ALVAREZはノールウェーであると記述しているが、40余年前親しく彼に接した汪培英氏(屏東)は、スウエーデン人であると云って居り、現在その国籍を決定し難い。彼の出生地、生年月日、履歴も元より全く不明であり、その肖像も見ることは出来ない。然し古老の話によれば、本島に来た時は30余歳であったと推定され、又痩せ形の人であったことは疑わない。江崎教授は、ノールウェーの知人に彼の調査を依頼されたが、何等得る處はなかったと云ふことであり、又現在台湾の英国領事館にも彼に関して何の記録も残って居ない。
台湾にて高雄州、台南州及び中部台湾を探検し、新高山の近くまで旅行した。高雄州にては、屏東(阿猴)、六龜(六龜里)、木柵及びその付近を訪い、六龜及び木柵には約2箇月間滞在し又六龜にては蕃社を訪うたと云はれて居る。またTHOMASは、彼が1893年11月4日、高雄州、木柵にて「彼が此地に滞在10日の後に、前日六龜に向かって出発した」ことを聞いたと述べて居る。

又THOMASは、彼が1893年3月4日に木柵に於て採集した兎を記録して居る。之等の記述によって、彼がその頃高雄州下を旅行して居たこと、木柵には少なくとも2回以上来たことを知り得るでしあらう。DAVIDSONは、彼が東海岸地方を探検したことを述べて居るが、その採集品には明に東海岸産のものは知られて居ない。又本島在住60年に達する台湾のTHOMAS BARKLAY師は、「HOLSTは安平の税関に勤務して居たことがある」と云って居るが、その真なるや否やは明にするを得ない。
HOLSTは単独にて、本島に来り、自ら動物を採集して、自ら標本を製作した。然し本島人を雇って道案内とし、又愛犬1匹を連れて居た。彼は狩猟に甚だ巧みであったことは、古老の話によって知ることが出来る。旅行中は本島人の家屋に住居し、或は宿屋又は外人宣教師の家に泊った。

1895(明治38年)の春頃、彼は本島在住2年余りで、終に此島に於て没し、その墓は台南市、三分子の墓地の西北隅に近く、本島人の墓の間に横はって居る。死因、死亡の場所及び月日は共に不明で、その粗末な墓石には単に”P. A. Holst. Naturalist died 1895”と刻まれて居るに過ぎない。墓石は高さ約1尺7-8寸、厚さ約3寸、幅約1尺の石が、幅約3尺の薄い臺石の上に東面して立って居る。写真は筆者が此墓を発見した翌日(1935年5月24日)撮影したものである。此墓石の建設者も今は何人であったか知る由もない。

彼の死去の年は、領台の年で、本島の南部の戦禍のはずであった。従って彼の悲惨な死も想像され得る。然し、彼に親しく接した汪培英氏(屏東)は、彼が肺を病んで居たことを述べて居るのを思ふと、台南又はその付近にて、病死を遂げたことも考へられる。DAVIDSONは、日本軍の台湾占領当時、本島都市に住居した外人の名を記して居るが、その中には彼は発見されない。
彼は単なる1採集人であり、何等の研究も行わず又自ら何の記録も発表しなかった。然し、生態の観察は行ひ、SEEBOHMの報告の中には、鳥(Pitta nympha)の食性に関する彼の観察が記録されて居る。
以下今より40余年前に、本島に於て親しく彼に接した古老の話を記して、彼を知る一助と致し度い。元より之等は彼等の古い記憶によるものであるから、事実と異る点もあり得ること、思はれる。

汪培英氏(屏東)談(1935年5月21日)
「HOLSTはスエデン人であって、何必虞と號して居た。屏東(阿猴)にて面会したのは40余年前であって、彼は30歳余りであったらう。瘠せた人であったが、顔は陽に焦けて赤黒く、甚だ愉快な人であった。台湾語は解しなかった。単独にて来り、本島人1名を雇って道案内とし、又犬1匹を連れて居た。埔里方面を旅行の後に阿猴に来り、此地には滞在すること短くして、老濃、六龜方面に向ひ、その後は再び来なかった、彼は自ら採集し、自ら鳥の剥製をし、狩猟は甚巧であった。或時六龜方面の蕃社を訪ひ、その首棚をスケッチしたるに、蕃人は彼を発見して殺害しようとした。彼は、その時飛び来った鳥を撃ち落し、又付近に生する竹を撃ち割った。蕃人は彼の神技と銃の威力に驚き、彼は危害より脱することを得たと、傳へ聞いたことがある。彼は肺結核を病み、木柵に永く滞在したと聞いたが、その死亡の場所及び墓は知らない。余の隣家は当時宿屋であり、此宿にて彼に会ったのである。彼は採集した甚だ小形の鳥や大形の蝶の標本を余に示したことを記憶する……」。

江德明氏(旗山郡、六龜)談(1935年5月19日)
「彼は40余年前、日本人の六龜に現れる前に此地に来た。40歳位であって、身長高く、単独で旅行して居た。老濃渓岸の本島人の家に住んで居たが、その家は後年大水に流失して今は無い。六龜には2箇月位滞在して居た。死亡の場所は知らない」。

羅約伯氏(旗山郡、木柵)は同地の古老に聞き質されて、次の如く通知してくださった(1935年6月)。
「HOLSTは木柵には約2箇月滞在し、キリスト教会の英人宣教師の宿舎に泊まって居た。時季は旧暦の11月ー12月頃であったかと思ふ。此地付近のみならず、遠く溝坪、杉林、甲仙にも採集に行き、狩猟は甚巧で、1日50余羽の鳥をとったこともあった。その時季は冬であり、彼は採集には常に茶褐色又は黒色の上着を用ひ、鳥打帽を戴て居た。当時の伝道師高長なる者を通して、朱才と云ふ本島人を雇って使って居た。毎日午前7時頃より、最終に出発した。愛犬を『ガン』と云ふよく訓練された大きな犬であった。当時その教会には教育所があって、多数の児童に漢文を教へて居たが、彼はその生徒達と親しみ、採集した鳥を示したことがあった、その鳥の中には甚だ小形の種類や又彼自身の名の付けかれた珍しい種類もあった。当時30歳くらいであったと思われる。食物は本島人と差別なく、前記高長氏の家で料理させて居たが稀にはパンを焼いたこともあった。木柵を去るに際しては、前記朱才を先づ安平に送って英国領事館に書信を届けさせ、「今より台南に帰る」と云って出発した。彼は新高山及び阿里山方面にも行ったことがあると云ふ。健康であって、その死亡の場所は不明である」。
台南の有力なる古老で、外人との交渉の多かった許延光氏は、HOLSTを全く記憶して居なかった。(1935年5月)

P. A. HOLSTが台湾に来たのは、元より鳥類の採集を目的としたのではあったが、同時に他の動物をも採集するいことを忘れなかった。即ち、多数の鳥類の他に、多数の両棲爬虫類、少数の魚類、哺乳類(兎)、昆虫類(蝉、カメムシ、カミキリ)及びクモ類を採って居る。又日本の本土とその属島では、此地サンショウウオ、ムカデ、タマムシ等も採集した。彼の本島にて採集した新種は割合に少く、筆者の知り得た範囲にては次に示すが如く、鳥類は2新種、その他の動物は9新種記載せられたに過ぎない。

(HOLSTが台湾にて採集した新種動物)
1.Tachydromus formosanus BOULENGER トカゲ(台南 中部台灣)
2.Microhyla fissipes BOULENGER ヒメアマガエル(台南)
3.Homaloptera formosana BOULENGER 魚(中部台灣)
4.Rallina formosana SEEBOHM タイワンオホクヒナ(台灣)
5.Machlolophus holsti SEEBOHM タイワンシジュウカラ(台灣)
6.Lepus formosus THOMAS 兎(木柵)
7.Formotosena seebohmi DISTANT タイワンアブラゼミ(六龜)
8.Cryptotympana holsti DISTANT タイワンクマゼミ(六龜)
9.Dicelosternus coralllinus GAHAN ベニツヤカミキリ(中部台灣)
10.Coleotichus borealis DISTANT カメムシ(六龜)
11.Macrothele holsti POCOCK ホルストトタテグモ(六龜)

又holstiと名付けられた動物は前記5、8、11の3種の他に次の3種がある。

1.Chrysochroa holsti WATERHOUSE オガサハラタマムシ(小笠原)
2.Babina holsti BOULENGER ホルストガエル(琉球)
3.Monotarsobius holsti POCOCK ホルストイシムカデ(日本)

彼の採集品はH.SEEBOHMに送られ、主として英国の学者に研究せられて英国で発表された。その標本はBritish Museumに保存せられ、その一部はSEEBOHMの死後、遺言によって此博物館に送られたものである。彼の採集品の研究報告には、唯「台湾」或は「中部台湾」と記して、産地の明でないものが多いが、台南、木柵、六龜の如く産地の明なものも見られる。六龜(当時の六龜里)は、本島に於ける好採集地で、近年内外人の此地を訪ふ者が少ないが、HOLSTの如きは此採集地の開拓者と云ふことが出来よう。

彼の採集した台湾産動物に関しては、筆者の知り得た範囲に於ては次の研究が発表されて居る。

(文献のリスト省略)

本文參考資料:
台灣魚類研究史
台灣鳥類調查
日本鳥類目録の変遷
傳說中的臺灣毒蜘蛛【赫爾斯特上戶蛛】
中興大學物理學系 暨 生物物理學研究所-生物物理期刊俱樂部
高橋良一著(昭和10年10月)。[動物採集家P. A. HOLST]。《數位典藏與數位學習聯合目錄》